44年振りの再会2017/02/13 10:12

正に、いつの間にやら70歳を間近に迎える年になった。もう二ヶ月で69歳である。       大卒で最初に就職した建設会社の同期の男と会うことになった。       私は、たった2年で退職したので25歳の直前に辞めた事になる。        私は法学部卒で事務系の総務部管理課、彼は九州の理科系の大学で、工事部に配属になった。          最初の2ヶ月は現場研修で、関東近郊の建設現場や関東地方の2工場でのオリエンテーションを受けた。      いろいろ有って、2年で退職し、帰省した。亡き父の希望を受けての退職だったので、父が就職先を探してくれた。  それが西武系の伊豆箱根鉄道であった。        彼は5年で退職し、地元の工務店で10年働き、その後、損保会社に就職し、暫らくして独立した由。      熱海駅前で待ち合わせた。     顔がわかるかが問題であったが、なんとか判別できた。    「こんなに老けたのか?」が第一印象。   彼もなんとか私を確認できた様だ。     2年間の付き合いの後、年賀状の交換は続いていた。            昨年の夏に、会いたいと電話が有った。  ではこの頃上京するので、間近になったら電話をくれることになっていた。   それを受けて、私が上京する予定だったが、近辺の1週間に結局電話は無かった。      何か理由があったんだろうと、問い合わせもしなかった。       半年後の年賀状で、それとなく、詰問的に書いたら、電話が有り、また上京するので会いたいとのこと。    (続く)

44年振り 22017/02/13 11:00

中門君、69歳 柔道2段の黒帯
彼が上京する理由は、かつての会社の上司に会いたいからだと説明していたが、他にも娘さんが都内で看護師で働いており、1年に1回は会いに来るとの事だった。私たちが入社した会社はPCコンクリートの会社で日本鋼弦コンクリート㈱と言った。   PCとはプレキャストコンクリートの事で、現場打ちではなく、工場生産のコンクリートと言う事だ。             製品は小さいものは側溝の蓋に始まり、大きいものは新幹線や高速道路の跨線橋、跨道橋、跨河橋 等である。  大きいものは橋長数百メートルの橋桁が有る。   橋桁の種類や技術は幾つもあるので、別の機会に。             彼が会ったのは、工事部の先輩方で、私にも懐かしい名前だった。    昨年に続き2回目の逢瀬のようだが、まだこの次も会うのかと聞いたら、これが最後だと言っていた。                                                また空振りにはならない様に、熱海駅前の和食堂を予約して有る事を彼に伝えて置いた。以前、別の友人と会食した食堂である。  金目鯛の煮付け定食、一日何食か限定の献立であった。    前回、とても美味しかったので勝手に頼んでおいた。       味は前回と違わず美味しかった。 新鮮な刺身もついて2100円。       数時間で帰社しようかとも考えたが、午後の半休と言う形にした。      彼もこの日は後の予定は無いとのことで、私の車で市内の幾つかの場所を案内し、喫茶店でコーヒーを飲み、約三時間のデートであった。        上背がこんなものだったかと思い、聞くと、5センチ縮んだとのこと。    彼は1歳年上で今69歳。そんな事があるものだろうか。80歳代以上の話かと思っていた。         特に病気は患っていないとのこと。                                                                   髪は薄くはないがかなり白かった。       夏のバス停で、かなり高齢のおばあさんに「暑いからこっちに来て日陰に入りなさい。」と言われたことがあるそうだ。 近い年齢と思われたらしく、がっかりしたと言っていた。       ( 続く )

44年振り 32017/02/13 12:00

彼は、10年前に奥さんを亡くしたとのこと。訃報は貰っていなかったので、初耳だった。 どういう病気かは聞き忘れた。上に息子がいて、早稲田の理工を出てアメリカの大学に1年留学したそうだから優秀であろう。  奥さんも看護師だったそうである。    ご両親のことも聞き忘れた。           別の友人にも以前、損害保険の代理店をしていた人が居たが、押し寄せる外資の波に翻弄されて、国内の代理店は徐々に手数料を削られ、更に生保も損保を扱えるようになったり、競争が激しくなった。    合理化は進み、タブレット片手の営業をしなくてはならず、ITにも通じていなくては、やっていけなくなった。その友人はITは詳しかったが、 いつしか、廃業して、今はタクシーの運転しをしている。   病気や交通事故による怪我も原因になっていると思うが。       中門君は単独の事務所をしばらく前にやめて、今は別の会社の職員になっているようだ。       個人で商売をするのはなかなか難しいだろう。  サラリーマンは安くても気楽だ。                  彼に土産のお菓子と酒を貰った。  彼はもう一日東京に居ると言っていたので、土産は3日後の私の休日明けの日に九州に干物を送った。  to be continued

44年振り 42017/02/13 13:00

今回の話題のついでに、PCについて。追加の情報を。             前述した様に、プレキャストコンクリートは一般工事全般に用いられている。 自分の居た会社は、細かいPC雑製品と言う物から橋桁まで製作していた。    PC製品の中で主力で有ったのは、PC枕木である。   国内の在来線の枕木は、木材からコンクリートに移行が始まっていた。地方は木材がまだ使われていたが、都会ではコンクリートが主体であった。      小田急電鉄、京王帝都が主な納品先であった。京王線は当時100%のシェアであった。      他に始まったばかりであったが、新幹線の直結軌道と言う名称の枕木が有った。    殆どが高架を走る新幹線では、橋の上に砂利を敷くこと無く、記憶によるが多分6畳間くらいの1枚のPC板に、レールを直接ボルトで接続するので直結軌道と呼ばれた。       後に新幹線通勤を10年もしたので、東京駅などのホームでレールを覗く事が良く有ったが、直結軌道の上に更に、赤いワインカラーのコンクリート枕木を置いてある駅を見る事が有ったので、工法が変わっていたのだろう。       また製品の1つにPC製の上水道タンクが有った。地方自治体の発注が多かった。     橋桁に関しては、小は地方自治体から受注する小さな橋桁から、大はJRや道路公団等のからの受注が殆どである。      従って、相手は官公庁が多いと言う事になる。    つまり財政投融資額の大小により、景気が変動するのである。      私の入った少し前に賞与が年間6ヶ月という年が有ったと聞いた。   、橋桁に関しては、日本は基幹産業がずっと製鉄と言われてきたし、事実であったので、自治体や公共企業が発注する橋梁は90%近くはメタル製で有る。          残りをPC業界が奪い合うと言う訳である。  現在はどうかわからない。    贔屓目であるが、メタル橋梁よりPC橋梁が美しいと思う。      会社の役員にJR等のOBが必然的に多くなる。   to be continued

44年振り 52017/02/13 14:00

PCの続き            プレキャストコンクリートでも私の居た会社の製品は多分全てが鉄筋にスティール、つまり鋼鉄を使用している。ハガネである。  弾力性が求められるからである。  橋桁で考えると分かり易いと思う。 橋桁は両端より中心部が持ち上がっている、昔の木製の橋も持ち上がっているが。  湾曲している事で、上から重力が掛かっても耐えうる強度を得る。  車で橋の途中で止まって居ると、対向車線の車の振動で橋が揺れるのが実感できる。     鉄製でも同じ事が言えるのであろうが。  コンクリートはそれ自体に弾力性は乏しい。そこで、コンクリート製品の中に鋼を封じ込めて固める訳である。       但し、簡単にはコンクリートの中の鋼がバネにはならない。動いたら意味がないからである。               鋼を橋桁や枕木の両端で固定して、動かないようにしなければならない。       しかも、鋼を高張力で引っ張ってから固めなければ、張力と弾力は生まれない。          両端の固定には各種特許が存在し、当時、国内の特許は少なく、欧米の特許を使っていた。   くさび形の固定金具を両端に埋め込み鋼を固定する。      高い圧力で引っ張る。数十トンになることがある。      無論、専用の圧力機を使う。     事故が発生し、橋桁の長さの鋼の鉄筋が外れて、100Mも飛んだ事があると聞いた。 人が巻き込まれれば惨劇になる。  それだけの張力に耐える固定金具であるから、特殊な技術が必要になる訳である。  更に、コンクリートは乾くから固まるのではなく、化学変化で固まるのであるが、自然乾燥を待つのでは製造時間が間に合わないし、均一な品質が得られない。       当時聞いたのは「蒸気養生」である。    密封された場所で、高温の蒸気を噴射させて、固めていく。       鋼の単価は高く、45年前に、一回の鋼の購入金額は億の単位であった。       鉄鋼の商社から購入する。   to be continued

44年振り 62017/02/13 15:00

現在のクエー河橋
最後に、「ポステン」と「プレテン」について。     鋼を型枠の両端に固定して、コンクリートを流し込み、固めるが。   コンクリートが完全に固まってから、鋼に張力を与えるのが、ポストテンション、つまりポステン。    事前に型枠の段階で張力を与えておいて、そこにコンクリートを流し込み、固まったら圧力機から鋼を外すのがプレテンションである。  何れにしろコンクリートが鋼の張力で圧縮される事で、弾力性が得られる。                     橋梁の製作の方法も何種類も有り、特許もからんでいる。橋桁は一般的には英語のI(アイ)の字の断面をしている。    このアイの形の橋桁を隙間なく並べて、橋が出来る。その上に舗装が施される。     桁の長さも技術の進歩で長くなっているだろう。数百メートルは無理なので、途中に繋ぎ目が必要になる。  これが橋脚である。 他に当時の用語で「ボックスカルバート」と言う工法が有った。 PCで出来た大型の四角い筒を繋げて行く工法であり、巨大な橋はこの方法が多かった様に思う。  かなりの長いスパンの橋でも可能のようであった。        橋の構造も様々であり、専門ではないので、止めておくが、入社時の研修後のレポートに書いた記憶が有るが、ラーメン構造という形式が有った。    有名な戦場に架ける橋で知られるタイのクエー河のクエー橋(クワイ河とも言うようだ)。これは映画で見たのだが木製の美しいラーメン構造であった。      無論、日本の技術で作られた。  この橋の美しさと、文明における橋というテーマでレポートを書いた記憶がある。  好評だったと後から聞いた。

義兄の訃報2017/02/19 10:46

川崎市に住む姉のご主人が今朝(2017年2月19日 午前5時半)に亡くなった。71歳であった。 若い頃から腎臓が弱く、結婚してからも長らく、食事療法で対処し、透析は行わなかった。5年くらい前から体力の低下が進み、食事を良くして透析にすべきとの医師の勧めで、週2回ほどの透析療養に変更した。          元々、100%の健康ではなかったので、ここ数年、肝硬変を起こすなど、体調が悪化していた。          昨日の姉の連絡では、ここ一週間が山と言われた由。 緊急入院しての判断だったが。    姉夫妻は子供がないので、姉がひとり残された。    姉は70歳で、多少の体力の低下が有るが、ほぼ元気である。       姉と義兄の出会いは、姉が静岡県立女子短大に進み、スグ近くにあった国立静岡大学の学生との交流が有った事が始まりだと聞いた。      共に現役であるが1歳違いの姉は短大なので1年早く卒業した。    姉は2年ほど県会議員事務所や製菓会社等の伊東市内で働いて、その後、原宿に当時あった日本福祉大学の3年に編入した。現在は清瀬市に移転している。       ここを卒業し都庁に採用されたが、行政移管で世田谷区職員になった。      福祉畑を歩き、最後は女性としては少ない部長職になった。     定年後は4年ほど外郭の福祉施設の理事などを務めて65歳くらいでリタイヤした。    最初は現在のマンションではなく東名高速沿いの高台に有るマンションを購入し、後に現在の新丸子のマンションを購入し引っ越した。    二人共都内に通っていたので、利便性のある場所を選択したそうだ。   - 続く -

義兄の訃報 22017/02/19 11:09

義兄の方は、静大の工学部化学科を卒業し、昭和シェル石油に就職した。  前述の病気の為、53歳くらいで早期退職して、あとは自宅で主夫業もしていた。  所属は研究所で有ったが、最後の頃は、技術者でありながらセールスにも出ていた。  セールスと言っても扱うのはコージェネシステムであり、灯油かA重油で動くコージェネである。価格は数千万円からと言うものだ。    コージェネレーションは私も「東京ベイホテル東急」在職時に、環境ISO取得の責任者だったため関係していた。                                                彼の趣味はテニスと音楽とカメラであた様に思う。            静岡県裾野市の富士の正に裾野に有る十里木別荘地に、スエーデンハウスを建て、スバルの4駆で遊びにくのが楽しみだった様だ。     何回かは使わせて貰った。    義兄も退職時は部長代理だった。   全てスバルを乗り継いだが、最後はパサートのワゴンを10年ほど乗り、昨年売却した。                                2年ほど前に、緊急入院したときは公代と見舞いに行き、初めて姉夫妻に彼女を紹介した。  人柄は極めて温厚で優しい人だった。         ご両親は既にいない。  男の三人兄弟で、彼が長男、次男の健さんは10年ほど前に亡くなり、千葉県長生郡に葬儀に出かけた。次男が私と同い年だ。  三男はヤクルト販社の社長して転勤が多い。     現在も地方にいる。  娘が2人いて既に嫁いで居る。   彼の家系も男子が途絶えている。                                                             大変お世話になった義兄である。心から冥福を祈りたい。

内視鏡検査20172017/02/28 08:12

60歳の時に、初期の直腸がんを切除した。8年前である。 術後の2年間は半年に1回下部内視鏡と胃カメラ検査を実施し、3年目くらいから、年1回実施してきた。途中4,5年経過した時点で、60歳の時と同じように弁潜血検査で異常を告げられて、検査したが、異常はなかった。      直腸がんの患部は既に完治しているが、術後の検査という名目で年一回検査を受けている。     今までは2日に分けて実施したが、医師の勧めで1日で済ませた。        まず、胃カメラを10時半に受けて、その場で異常は無いと告げられた。12時半から下部内視鏡、毎回、全身麻酔でほとんど覚えていない。  今回も同様で終わって起こされた感じ。割と早く45分くらいだった。       点滴に麻酔液を追加する形であ麻酔されるが、ウイスキーをWであおったくらいの心地よさが有り、体が暖かくなり、数秒で意識を失う。    気持ちがいいくらいだ。        キミが胃カメラの後位から待合室で待機してくれた。   病院を出たのは15時半くらいだったと思う。        運転はしないように言われたが、自覚症状は何ともなく運転はいつも通りにできた。   詳細な検査結果は3月8日に聞く予定。